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TOSSランドNo: 9774727 更新:2012年12月12日

道徳資料「六千人の命のビザ」


 六千人の命のビザ

 1940年(昭和15年)7月27日の朝。私たちはいつもと同じように軽い朝食をとり、夫は階下に降りていきました。
 私たちが住んでいるリトアニアはヨーロッパでも北の国です。リトアニアは夏でも朝晩肌寒く、昼でも17度ぐらいにしか上がりません。夫はそのリトアニアの日本領事館で働いていました。夫の名は杉原千畝(すぎはらちうね)と言います。千畝は朝食が済むと階下に降りていき、昼食の時間に再び家族の前に顔を見せるのが日課でした。
 その朝、階下に降りていく千畝を見送り、私は自分の部屋で読書をはじめました。本を開いて数十行ほど読み進んだとき、ノックの音して千畝が入ってきました。
「ちょっと窓から覗いてごらん」
 私をうながすように窓に近づいていく千畝に、一瞬戸惑いを覚えました。カーテンを少し開けて、千畝は再びうながすように私を見ました。夫のかたわらに寄り窓の外を何気なく眺めて、私は自分の目を疑いました。
 領事館のまわりをびっしりと黒い人の群が埋め尽くしてしているのです。一夜にして群衆が押し寄せ、動いているのです。「どうして?」という思いで私は千畝の顔を見つめました。千畝にもその理由がつかみきれない様子でした。
 そして、千畝は次のように説明してくれました。
「群衆の多くはポーランド西部都市からのユダヤ人であって、ナチス・ドイツ軍による逮捕、虐殺の難を逃れ、唯一の逃れの道としてヴィルノを目指し、晴雨を問わず幾日もかかって、ある者は鉄道線路伝いに痛む足を引きずりつつ、ある者は運良く行きずりの荷馬車に乗せてもらい、大移動を続け、かろうじてヴィルノに辿り着いたわけである。とにかく、ソ連、日本を経由して、それ以遠の第三国へ移住するための日本通過ビザを発給してもらいたい、ということだ。」
 千畝の説明を聞きながら、私は言葉もなく立っていました。

 その後、千畝がどうしているのか心配で、私は階下に通じる階段の踊り場に立って、耳をそばだててみました。なにやら混乱している様子はわかるのですが、事務室で何が起こっているのかは、うかがい知ることはできませんでした。
 仕方なく自分の部屋に戻り、カーテンのすそからそっと外を覗いて見ました。人々は血走って、訴えるような目をしていました。外から見えないように気をつけていたのですが、窓に映った私を見つけた数人のユダヤ人が、私に向かって何かを叫び始めました。中には祈るように手を合わせている人や、私に手を差し出している人の姿もありました。領事館の鉄柵を乗り越えようとする人もいました。
 日本は、1936年にナチス・ドイツと日独防共協定を結んでいました。日本領事館がユダヤ人にビザを発行したとなれば、それはドイツへの敵対行為ともなります。ビザを彼らに発行するということは、ナチス(ゲシュタボ)に命を奪われかねない危険なことなのです。そのことを千畝も承知していました。

 時折、窓から覗いて見ると、顔の汚れた幼い子どもが、父親の手を固く握っている姿が目に入ります。胸の奥に痛みが走り、思わす目を閉じてしまっていました。
「あの人達、何しにきたの?」
 かたわらにいた長男の弘樹が聞きました。まだ5歳の子どもには、何が起こっているのか理解できない様子です。すぐ横には3歳の千暁もいました。
「悪い人に捕まって、殺されるので助けてくださいって、言ってきたのよ」
「パパが助けてあげるの?」
 一瞬言葉に詰まりました。子どもに嘘を教えるわけにはいきません。
「そうですよ」
 弘樹の頭を抱き寄せながら、私はその言葉を弘樹にではなく、自分に言い聞かせていたのです。
「助けてあげようね。かわいそうだから」
 弘樹は。ポツリと言いました。

 一日中叫び声をあげ、鉄柵の外で興奮して騒いでいた人々も、暗くなると引きあげていきましたが、中には何人かが残り、戸口を叩いていました。
 その翌日もまた早朝から人々は押し寄せ、人数も増えて混乱状態が続きました。私たちもじっとしていられない焦燥にかられました。その翌日も同じ状態で、ユダヤ人の人々も私たちも、追いつめられた心境におかれていきました。
 「騒然としている状態を、このままにしておけない。みんなが入ってくると収拾がつかなくなる」
 千畝はそう判断すると、ユダヤ人の中から5人の代表を選んで話を聞くことにしました。

「我々は、ポーランドから逃げてきたユダヤ人で、日本領事館へ行けばビザがもらえると聞いてきました。どうかビザを交付していただきた い。」
 指導者として、ユダヤ人達を率いてきたゾラ・バルハティックという人が話し始め、あとの4人もそれぞれの窮状を訴えました。
 彼らが求めていたのは、日本を通過するために必要な通行ビザでした。数人分のビザならば、領事代理の夫の権限で発行できます。しかし、何百枚、何千枚ともなると外務省の許可が必要です。夫は自分自身の考えでは即答できないことを告げ、その日の会談は終わりまし た。

 千畝は一晩中眠れない様子でした。何度も寝返りをうつのがわかりました。私もあまり眠ることができませんでした。
 翌朝、千畝は私に苦しみを押さえて言いました。
「外務省へ電報を打ってみよう。一人では決められない難しい問題だ」
「そうして下さい。あの人たちのために」

 私は、そう答える以外になかったのです。
 外務省に宛てて、第1回の電報が暗号で打たれました。超特急でいく電報は、外務大臣と外務省のトップクラスだけが目を通す秘密文書扱いでした。リトアニア国内の状況と併せて、多くのユダヤ人が、ビザの交付を求めていること、それは人道上どうしても拒否できないことを書いて送りました。

 さて、ビザの発行についての最初の電報を送ったあと、千畝も私もジリジリしながら返事を待ちました。外のユダヤ人も落ちつかない様子です。
 やっと返事がきました。外務省の判断は「否」。最終目的国の入国許可を持たない者には、ビザは発行するなという意向でした。それは千畝も予想していた答えでした。当時の松岡洋外務大臣は、ドイツ・イタリアとの協力関係を積極的に進めようとしている人でした。ドイツに敵対するような行為は、認めるとは思えなかったのです。
 それでも千畝はあきらめず、第二の電報を外務省に送りました。緊迫した現地のあり様を伝えた長い電報でしたが、外務省の意向は変わりません。
 この2日間、千畝は、眠ることもできずに考え込んでいました。
 その頃には、リトアニアにあった各国の領事館は国外に退去していました。千畝がいる日本領事館にもソ連からの退去命令がきており、日本の外務省からも「早く退去するように」という指示が出されていました。
「ここで、振り切って国外に出てしまえば、それでいい。それだけのことなんだ・・・。」
二日二晩悩みながら、千畝は私に確認するように何度もそう言いました。
「それはできないでしょう。これだけの人たちをおいて、私たちだけが逃げるなんて絶対にできません。」
 確かに家族の安全を考えるならば、今すぐ国外へ退去することが最前の方法でした。でも、千畝はそんなことができる人間でないということを、私はよくわかっていました。
「そうだね」
 千畝の顔にいつもの優しい笑顔が戻るのを見ると、私もつかの間の安らぎを感じました。
 3度目の外務省への電報の返事も、同じでした。
「内務省が大量の外国人が日本国内を通ることに治安上反対している。ビザの発行ならぬ」
という外務省の回答に、千畝の心は決まったようです。
「幸子、私は外務省に背いて、領事の権限でビザを発行することにする。いいだろう。」
「あとで、私たちはどうなうるかわかりませんけれども、そうしてあげてください。」
 私の心は千畝とひとつでした。大勢の人たちの命が、私たちにかかっているのですから。
 千畝は外務省を辞めさせられることも覚悟していました。「いざとなれば、ロシア語で食べることぐらいできるだろう・・・」 と言った千畝の言葉には、やはりぬぐいきれない不安が感じられました。
「ここに百人の人がいたとしても、私たちのようにユダヤ人を助けようとは考えないだろうね。それでも私たちはやろうか」
 千畝は私の顔をまっすぐに見て、もう一度、念を押すように言いました。私は、その時、私も子どもたちも、最悪の場合は命の保証はないのだと思いましたが、黙って深くうなずきました。千畝以外の人ならば、無難な道を選んだことでしょう。死の恐怖にさらされている多くの人々を前にして、平然と立ち去ることなど考えられないことでした。ユダヤ人の代表5人を領事館に招き入れた時から、千畝の気持ちは決まっていたのかもしれません。
 1940年(昭和15年)7月31日、まだ暗い内から人々は集まってきていました。
夏だといっても朝夕は寒いくらいで、コートを着ている姿が目立ちます。お互いに話し合うこともなく、静かに立っていましたが、その顔に焦燥の思いが色濃く表れていました。
 千畝が表に出て、鉄柵越しに「ビザを発行する」と告げたとき、人々の表情に電気が走ったようでした。一瞬の沈黙と、その後のどよめき。抱き合ってキスし合う姿、天に向かって手を広げ感謝の祈りを捧げる人、子どもを抱き上げて喜びを押さえきれない母親。窓から見ている私にも、その喜びが伝わってきました。
 千畝は朝食のコーヒーを飲むと、急いで事務室へ降りていきました。一人一人の応答のあと、手書きでビザを書くという作業が始まりました。
 その日、千畝は事務室に降りたきり、昼食どきになっても戻ってきませんでした。
 翌日も千畝は昼食を取りませんでした。朝9時から午後5時までというのが通常の開館時間でしたが、朝9時に開けると夕方遅くまでビザを書き続けていました。そういう日が何日も続きました。
 千畝はときどき事務室から顔をだし、踊り場にいる私に顔を見せてくれました。
「外はどのくらい残っている?」
「まだ相当残っています。」
 千畝のいる事務所からは、外が見えないために尋ねたのです。
 はじめの頃、千畝は1日に三百枚のペースでビザを書くつもりでいました。すべておを手書きで、しかも、一人ひとりの名前を間違えないように書くという、手間のかかる作業です。事務員のグッジェが領事の印を押すのを手伝っていました。千畝とともに食事も取らず懸命に働いてくれました。それでも記入するのは、千畝でなければなりません。知らず知らずに手にも力が入ってしまいます。万年筆が折れ、ペンにインクをつけて書くという日が続きました。1日が終わると千畝はぐったりと疲れて、そのままベットに倒れ込む、痛くて動かなくなった腕を私がマッサージしていると、ほんの数分もたたないうちに眠り込んでいる状態でした。
 それでも翌朝には、早くからビザを書き始めます。大勢のユダヤ人が順番を待って朝から晩まで立っていました。夜はもう寒いのに、早い順番を取ろうと領事館の前にある公園で寝泊まりしている人もいました。やっと順番が巡ってきて、千畝にひざまずいて足もとにキスをする女性もいたそうです。その姿にこの人たちが、経験してきた苦しい生活が痛ましいほど感じられたそうです。その人たちの喜びが、千畝のペンを走らせたのでしょう。
 そんな状態が20日あまり続きました。その間ソ連からの退去命令が数回ありました。実際にはそれ以前に、外務省から「領事館退去命令」が出されていました。千畝は、それらを全て無視してビザを書き続けたのです。もともと丈夫な人でしたが、もう、このころには気力だけで書き続けているのがわかりました。1ヶ月近く昼食も取らず、朝から晩まで休む暇もなかったんぼです。8月も終わりのころ、夜、2階に上がってくると、「これでうち切ろうか」と言いました。
「まだ残っていますから、もう少し頑張って続けましょう。一人でも多く助けましょう。」
千畝がくたくたに疲れているのはわかっていたのですが、私は外の人々を毎日見ているので、そう言いました。千畝も口元をほころばせて、

うなずいてくれました。
 ここで投げ出せば、きっと悔いが残ると思ったのでしょう。後でユダヤ人から聞いた話では、残ったユダヤ人は全て殺されたと言うことでした。
 千畝は8月28日までビザを出し続けました。7月31日から29日間、朝から夜まで休みなくビザを出し続けました。ソ連からの退去命令と外務省からの「領事館を閉鎖し、ただちにベルリンへ行け」とう緊急電報が届きました。その命令には有無を言わせない強さがありました。千畝もビザ発行を打ち切るほかなく、ひきあげを決意しました。

 外に出て、車に乗った私たちの姿を、茫然とたたずんで見ている多くのユダヤ人のことを忘れることができません。
「許してください。できるだけのことはしました」
 心の中で、その人影に詫びながら、私の目には涙があふれてきました。千畝はホテルで体を休めようとしましたが、ユダヤ人達がやってきました。領事館を出る前に千畝がホテルの名前を張り出してきたのです。千畝はそこでも正式なビザに代わる許可証を発行しました。
 9月1日の早朝、駅でベルリン国際列車を待っている時にも、ビザを求めて何人かのユダヤ人がきていました。千畝は、汽車が走り出すまで、窓から身を乗り出して許可証を書き続けていました。
「許してください、私にはもう書けない。みなさんのご無事を祈っています。」
 千畝は苦しそうに言うと、ホームに立つユダヤ人に深々と頭を下げました。立ちつくす人々の顔が、目に焼き付いています。
「バンザイ。ニッポン。」
誰かが叫びました。
「センポ スギハラ。私たちは、あなたを忘れません。もう一度あなたにお会いしますよ」
 列車と並んで泣きながら走ってきた人が、私たちの姿が見えなくなるまで何度も叫び続けていました。


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