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TOSSランドNo: 6897402 更新:2013年10月26日

道     星野富弘 (生きるとは)


星野富弘 (生きるとは)

1970年6月17日
 「どうしたんだ、星野先生¦」
 田中先生が走ってきた。いつまでも起き上がろうとしない僕の様子を変に思って、誰かが呼んできたらしい。
 「すみません。どうも首をやられてしまったらしいです。」
 もっとも恐れていたことを、僕はなるべくなんでもなさそうに言った。まわりをびっしりと囲んでいる生徒たちの顔の間から、教頭や他の先生たちの顔がのぞいて見えた。
 私はマットの上に倒れたまま体育館から運び出された。言葉はとぎれとぎれになり、呼吸が苦しくなっていった。
 「ハルスですね」
 僕は、内堀整形外科病院の診察室へマットごと運び込まれた。医師達はハンマーのようなもので僕の体を叩いていた。(ハルスというのは首の骨のケガをさしていう言葉だ)しかし、ここでは手に負えず、大学病院へ行くことになった。
 大学病院整形外科の診察室には、驚くほどたくさんの白衣を着た人たちがいた。ここれもやはりハンマーのようなもので、僕のあちこちを叩いているようだった。
 「痛いかい?」
 何度も何度も同じことを聞かれた。しかし、僕はまったく痛みを感じなかった。
 「痛いかい?」
 医師はそれでも執拗に同じ言葉を繰り返した。どうしてだろう・・・。そう思っているうちに首のあたりがちくちくと痛みだしてきた。今度は針で体のあちこちを刺しているようだった。ところが首から下は、いくら針を刺しても何も感じなかった。
 「ハルスですね。」不気味な言葉が、ここでも何回となくささやかれた。

 この日から僕は、四肢完全麻痺、胸骨上縁以下の知覚障害という障害を持って、生きていくことになったのである。
 自分で用便をすることも、食事をすることもできず、ベットの上で、目をパチクリするだけで、来る日も来る日も天井を見つめたまま、食事の時間がくれば、母に食事を食べさせてもらう毎日でした。

1972年  夏
 東京の病院へ移った高久君のお母さんが久しぶりに病室を訪れた。高久君は、中学生で僕らの病室の人気者であった。命に関わる重い病気のため、病院を移ったのである。しかし、知らない人の中でずいぶん淋しい日を送っていたらしい。
 高久君のお母さんは、彼に僕らの声をテープにおさめ、愛用のチューリップハットに寄せ書きをして、持ってくるように頼まれてきたのだった。テープにはみんなで思い切りにぎやかな歌を吹き込んだが、寄せ書きの注文に僕はハタと困ってしまった。看護婦さんや部屋の人たちが、思い思いの言葉を書いた帽子が最後に回ってきた。悔しいけれど僕にはどうにもならなかった。ああ、書ける手が欲しい¦僕が直接書いた文字を帽子のどこかで発見したら、高久君はどんなにか喜んでくれるだろう。
 病床にある者同士のささやかな励まし合いである。そう思うと「よしっ。高久君を驚かせてみたい。うんと喜ばせてみたい。」そんな思いに僕は焦った。そしてせき立てられるように、今までやってみたこともないことをすることになった。サインペンを口にくわえてみた。母が帽子を私の顔の上におそるおそる広げた。私は全身の力を首に集中して頭を持ち上げた。
 ペン先がわずかに帽子に触れ、その白い生地に、ゴマ粒ほどの黒い点をひとつ付けるのが限界だった。首を持ち上げただけで、僕の全身の力はすべて出し尽くしてしまった。
 マラソンをした直後のように呼吸は乱れ、前歯はペンを強く噛んでいたために、まるで感覚がなくなってしまった。なかば硬直したような唇のまわりには、よだれがぶざまに流れていた。
 首を動かすなどあまりの暴挙だったのだ。結局、僕のくわえたサインペンに、母が帽子を上から押しつけては、左右に少しずつ動かしながら「富」という字を書いた。
 黒い点はうまい具合につなげて「お」という字にした。私は上を向いてサインペンペンを歯にはさんだまま、まったく首を動かさず、帽子には「お富」と茶目っ気たっぷりに書いたのである。
 幾日かたったある日、高久君から電話がかかってきた。彼は例の帽子の「お富」のサインを、ことのほか喜んでくれた。僕は喜ぶ彼に「俺はサインペンをただくわえていただけだったんだよ」とは、最後までどうしても言うことができなかった。
 僕は高久君の喜ぶ声を受話器から聞きながら、「こんなに喜んでくれて良かった。」と思うと同時に、「口で字を書きたい。」と痛烈に思うようになった。

1973年 10月
 手が動かないので、食事は三度三度母に口に入れてもらっていた。あお向けに寝ただけだから、汁は大きなスプーンで口に流し込んでもらった。体を動かすことがないのと、病院のs食事時間の間隔が短いため腹が減らなかった。そんなときの食事は、しかたなく食べるようなもので苦痛ですらあった。そんな時、少しでも顔にこぼされたりすると、それを口実に食べるのをやめてしまった。
 やはり食べたくない食事の時のことだった。母の手元が震えてスプーンの汁を僕の顔にこぼしてしまった。わずかなことだけれど、カッとなってしまい、そのとたんに積もり積もっていたイライラがいきなり爆発してしまった。どうしようもないほどに膨れ上がってしまった苛立ちを、投げつける相手は母しかいなかった。
 僕は、口の中のご飯粒を母の顔に向けて吐き出し、怒鳴った。
 「チキショウ。もう食わねえ。くそばばあ。」
 ちらかったご飯粒を拾い集めながら、母は泣いていた。
 「こんなに一生懸命やっているのに、くそばばあなんて言われるんだから・・・。」
 「うるせい。俺なんかどうなったっていいんだ。生んでくれなけりゃよかったんだ。チキショウ。」
 母は涙をふきながら、自分の食事に出て行き、しばらく帰ってこなかった。
 一度開いてしまったイライラの出口は、容易に閉じることはできず、母がやっと帰ってきても、トゲのある言葉で母にあたった。母もよほど悔しかったのか、しばらく口をきかなかった。
 
 ハエがうるさく僕の頭の上を飛びまわっていた。まるで僕の手が動かないのを知っているかのように、いくら顔を振っても離れてはすぐに僕の顔にたかった。黙りこくっていた母が、とうとうたまりかねてハエ叩きを握った。足のへんで叩く音がして、一匹取ったようだったが、少しするとまた別のハエが現れて、僕の顔に止まった。母がハエ叩きをにぎって叩こうとしたが、気を取り直してハエ叩きを左手に持ちかえて、右手で僕の顔のハエを叩く構えをした。そして母の手は叩くというよりも、そっと触るように僕の顔を押さえた。もちろんハエは逃げてしまったが、ハエの止まっていた頬に、母のしめった手のぬくもりが残った。ザラついていたけれど柔らかな母の手だった。母の感触は、僕の頬から、いつしか体中に広がっていった。
 あれほどの言葉をあびせた僕を、母はきっと憎んだにちがいない。しかし、その憎しみの中でも、母は僕の顔につきまとうハエを見過ごしていられなかったばかりか、ハエ叩きで私の顔を叩くこともできなかった。母の顔にご飯粒を吐き掛けた僕の顔のハエを、母は手でそっと捕まえようとした。
 僕は思った。これが母なんだと。僕を生んでくれた、たった一人の母なんだと思った。
 この母なくして、僕は生きられないのだ・・・。

1974年 初夏
 「小林君が星野さんの名前を呼んでいるんだけれど、ストレッチャーにでも乗った時にでも会いに行ってあげて」
 看護婦の池田さんが僕に言った。小林君は、僕の向かいのベットにいた、重い脊髄の病気の高校生だ。驚くほど素直な礼儀正しい少年で、病院ずれしてしてしまった僕には、年下とはいえ彼のすがすがしい人柄に、教えられることばかりだった。彼の新鮮さに少しで多く触れたくて、私は古狸の自分をすてて、素直な気持ちで彼といろいろな話をした。
 彼は僕のことを兄のように慕い、僕も彼を弟のように思うようになった。
 彼の手術は大手術だったので、彼に個室に入るように進めたが、彼は僕のいる大部屋にいたいと言って、手術後も僕の向かいのベットにもどって来た。しかし、彼の病気はどんどん進んでしまい、しばらくしてどうしても個室に移らなくてはならなくなってしまった。
 ある日廊下で彼のお母さんから、彼の命がもういく日もないことを知らされた。私も人の噂や、今まで亡くなったいった人の例から、ある程度の覚悟はしていた。しかし、はっきりと知らされたときには、凍るような悲しみが体の中を駆けめぐった。
 看護婦さんの話では、もう食べる力もなく目も見えない状態なのに、時々うわごとのように僕の名を呼ぶというのである。しかし、僕は小林君に会いに行くことができなかった。母に毛布を顔の上まで引き上げてもらい、あふれ出てくる涙を人に見られないように、一人泣くだけで精一杯だった。
 僕は、死にたいと思ったことは何度もあった。ケガをした当時は、なんとしても助かりたいと思ったのに、人工呼吸器がとれ、助かる見込みが出てきたら、今度は死にたいと思うようになってしまった。動くこともできず、ただ上を向いて寝ているだけで、口から食べ物を入れてもらい、尻から出すだけの、それも自分の力で出すことすらできない。つまった土管みたいな人間が、はたして生きていてよいのか。女性を好きになっても抱くこともできないだろう・・・。
 舌を噛みきったら死ぬかもしれないと考えたりした。食事を食べないで餓死しようともした。が、腹が減って死にそうだった。死にそうになると生きたいと思った。母に首を絞めてもらおうと思ったが、母を殺人犯にさせることはできなかった。
 エキスパンダーや鉄アレイを、細くなった腕で握りしめながら、病気の治る日に備えようとしていた小林君を思うと、いっときにせよ自殺を考えた自分が恥ずかしかった。今までに「死」ということを真剣に考えたことがあっただろうか。僕が死にたいと思っていたときは、もっとも「死」を真剣に考えていなかったときではなかっただろうか。
 「生」を受けた者に、もっとも確実に約束されているのは、「死」である。僕も遅かれ早かれ、必ずいつかは死ななければならない。自殺を考えていたときは、神様の定めておいてくれる本当の自分の死から逃げようとしていた時ではなかっただろうか。死から逃げてはならないと思った。
 いつかはわからないが、神様が用意していてくれる本当の「死」の時まで、胸を張って一生懸命生きよう。


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