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TOSSランドNo: 7218045 更新:2013年10月26日

道  「中村久子の生涯」授業記録


OHPで中村久子さんの写真を写す。

指示1:

はじめにこれを見て下さい。○○さん、何をやっているのかわかりますか。

・何かを切っている。
・腕がなくて、脇に包丁をもって何かを切っている。

説明1:

この人の名前は中村久子さんといいます。今日はこの人の生き方について勉強していみたいと思います。
久子さんは、3歳のときに肉が焼けるように腐る病気で、両腕が肘から、両足が膝から下がありません。お医者さんからは、短い命だと言われました。寒くなると傷口が痛み、久子さんは泣き出しました。そんとき「うるさい」と近所の人から言われました。

資料を配布する。

中村久子の生涯  ―四肢切断の一生―

 明治34年ごろの高山の町は、春の山王祭なるといろいろな見せ物小屋が立ち並びにぎわった。そこの興行師たちは久子のことを聞き込むと彼女を買い取りたいと持ち込んできた。貧しい畳職人の栄太郎は、そんな話が持ち込まれたとき別人のようになって怒った。
「どんなに貧しくても、たとえ親子が餓死しても、不幸なこの子を興行師などの手に渡すものか。誰が何と言ってきても、この子は、俺の手で短い一生を終わらせてやる」
と栄太郎は太い拳で涙をぬぐいながら、いつも友人にそう思いのたけを訴えていた。長男の栄三が生まれても栄太郎の思いは少しも変わらなかった。そんな栄太郎であったが、久子が七歳のときに突然、急性脳膜炎で亡くなってしまった。
 
 8歳になった久子は入学通知を受け取った。しかし、当時障害の子に学問はいらぬという空気が強く、永久に入学の日はこなかった。
 その年、母のあやは、8歳の久子を連れて藤田という家に再婚した。あやの再婚には、祖母も親類一同も反対であったが、それ以外に母子が生きる道はなかった。また、弟の栄三も育児院へつれていかれることになる。
 そのような環境の中で、あやは一つのことを考えていた。両手両足のないわが娘に、何かを身に付けてやらねば・・・と。久子が泣いてもわめいていも、何か一生食べていけるものを身に付けてやらねば・・・と。親は子の一生を面倒見るだけ長生きはしないのだ。久子にたいする母の躾は目に見えいてきつくなった。あやは久子に着物のほどきものを言いつけた。
「どうしてほどくのですか」
「自分で考えておやりなさい」
「そんな難しいことできません」
「やろうと思えばできます。やりなさい」
 どうしても、どんなに工夫しても全然できないので、久子は泣きながら言った。
「どんなにしてもできません。母様、ゆるしてください」
 母は許さなかった。
「どんなことでも、やらなければならないのが人間なのです。できないからと言って、何もしなかったら、人間は何もできないのです。やらなければならない、と気持ちになったら必ずできます」
「できません。無理です」
「できない、というのは横着だからできないのです。やるという気があったら、できないことはありません。あやまりなさい。そしてやるのです」
 母のあやは『できない』という我が子を許さなかった。
 母は容赦しなかった。やればできますと言い、ハサミと着物を彼女の丸い腕に持たせました。
 ハサミと格闘する日々が何日か続いたある日、久子の目に針箱の隅にある小さなハサミが目についた。[あのハサミを口にくわえてやれば、留め糸が切れるのではないか]そうひらめいて久子はハサミを口にくわえた。彼女はそれで何度も何度も留め糸切りに挑戦した。
 そして、やっと留め糸をパチンと切ったのである。久子は喚声をあげた。
「わあ。切れた・・・」
躍り上がって喜ぶ彼女の頬にするすると涙が流れた。
一人でほどきものができる¦これは大きな喜びだった。自分の力の発見であった。

「女の子はお針が一番大事じゃでな。なんとかして、あんたも針が持てたらええにな」
 母の言葉に久子はふるい立った。
 久子の工夫は毎日続いた。
 針にどうして糸を通すか、どうして運針(うんしん)をするか、運針のあとの糸の結び玉は、どうして結ぶのか。久子はこれらを一つずつ克服していった。久子が人形の着物をこしらえたさに四苦八苦しているときに、祖母と母以外は、誰彼となく口汚く久子のことをののしった。
「手なし、足なしに何ができるもんか」
 久子は口惜しくて涙をポロポロこぼしたが、人形の着物づくりは決してあきらめなかった。
 何日もかかってようやく縫い上げた着物は、つばでベトベトに濡れていた。その着物を手にした祖母は声をつまらせた。
「おお・・・、縫えた。縫えた」
 祖母は目尻の涙をふきながら、つばで濡れた小さな着物を、こたつで丹念にかわかしてくれた。
[私にも人形の着物が縫える] この喜びは大きかった。
 久子は、18歳の頃には、女物の袷せ(あわせ)なら1日半か2日で仕上げ、編み物は1日に毛糸8オンスを楽に編めるようになっていた。
 人形の着物づくりに自身をもち、有頂天になっていた久子は、ある時近所の友だちに頼まれて、人形の着物を縫ってやった。できあがった着物は、つばでベトベトに濡れていた。久子は得々としてそれを友だちに渡した。幼友達は「久ちゃんが口で縫った人形の着物や」と、喜んで家にもって帰ったが、そこの家の母親に「こんな汚いものをもらってはいけません」と言って、取り上げるやいなや小川の中に、人形の着物を投げ捨てた。
 このことを聞いた久子は、はじめて自分に手がないことをはっきりと知った。[汚い]と捨てられたことは、彼女の頭からはなれなかった。
 しかし、自信と自慢の人形を捨てられたことが、[よし、濡れない着物をこしらえてやるから]という発憤を生んだ。久子は、自分のできないことに次々と挑戦していった。濡れない着物ができるようになるまで、それから13年の長い年月がかかるのだが、[この侮辱こそ宝であった]と、後年、久子は感謝するようになる。
 ある年の梅雨のころ、あやは信州下諏訪の製糸工場に出稼ぎに行くことになった。その間久子は、祖母の家にあずけられた。
 祖母の家で過ごす、ある日のことである。小学校帰りに男の子が入口から久子をのぞいては、「手なし、足なし」と口汚くののしった。
 気の強い久子は、負けないでたちまちケンカを始める。最初2人、3人だったのが学校の引け時になると、大勢の子どもが寄ってきて、大きな声で、口々に「手なし、足なし」と遠慮なくわめきたてる。多勢に無勢ではどうすることもできないので、久子はとうとう泣き出した。

 そんなとき祖母は久子を戒めた。
「仏さまがご覧になっていらっしゃるから、いじめられても、叩かれても、決して他人さまを口汚くののしってはいけませんよ」
 祖母の存在は久子にとって大きかった。
 祖母は、久子が読書や習字が好きなのを喜んで、毎日手をとって教えてくれた。久子の学力は同学年の子どもたちと比べて高くなった。
 また、祖母は久子を、体が不自由だからといって特別扱いをしなかった。来客があると礼儀作法などを教え、いろいろな面で厳格な躾をほどこした。こういう祖母の孫への明るい接し方は、久子をどれほど伸ばしてくれたかわからなかった。

 母のあやが出稼ぎから帰って来ると、久子は義父の家に戻った。そこで久子を待っていたものは・・・。
「お前さえいなかったらな、こんなに苦しい思いをしないだろううにな」
「お前のような障害者を、家の子だと思われるのは恥ずかしい」
というような口汚い言葉であった。
[生きているより死んだ方が良い。どうしたら死ねるのかしら・・・]
[手足のない私が生きていることは、決して幸せでもなければ、喜ぶべきことでもない。死んだらみんなが救われる]
 久子の頭を去来するものは死であった。だが、それを今一歩のところで押しとどめているのは、
[どんなにつらくても、どんなに苦しくても、力の限り生きていくことだ]
と教えてくれた祖母の言葉であった。
 求めている死に出逢うことができず、求めざる生を押しつけられて久子はさまよった。
[神仏は、なぜ、私のような人間を作るのだろう]
 こんなとき、久子は物思いに沈み、亡き父栄三郎を思い出すのであった。

 久子は、20歳になってある決心をすることになる。
 久子に見せ物小屋で働かないか、という話が再びもちあがった。
[見せ物芸人に落ちてはいけない。自尊心を失うな]
とささやきかけてくる。
 どうしたらいいのか久子は悩んだ。だが一方で
[お前は1人で生きていかなくてはならないのだ。何をぐずぐずしていいるのか]
と別の声が叱責する。
[祖母様や母様にこれ以上苦労をかけることはできない。いつまでもこうしてはおられないのだ]
 久子は見せ物芸人以外に自分が生きる道はない、と心であきらめていた。
 こうして久子は見せ物小屋に売られていった。
 久子の初舞台は大正15年12月1日、名古屋の門前町であった。
 キャッチフレーズを「だるま娘」とつけられた。
 久子は、これから22年にわたり、見せ物小屋で働くことになる。
 昭和13年8月に、久子は東京第三陸軍病院を慰問した。陸軍病院の舞台、四肢切断の女性が神業のような早さで針に糸を通し、それを口にくわえて、普通の女の人よりも早く着物を縫い、魔術のような切り紙の芸を見せ、口に筆をくわえ見事な字を書くのである。
 傷痍(しょうい)軍人たちは、驚嘆の目で彼女の芸を見、久子の講演を涙して聞いた。
 これがきっかけとなり、後に久子は興行界(見せ物小屋)を去り、講演をして各地をまわるようにようになっていった。
 昭和21年ごろからは、求めに応じきれないほどになった。そして、それは天寿をまっとうする昭和43年まで続いた。
 久子が亡くなったのは、昭和43年3月19日、午前6時53分、高山市の自宅でである。
 数え年で72歳であった。

指示2:

赤鉛筆を出して下さい。今日は長いので先生が読みますが、すごいなとか心に残る、引っかかるところは横にラインを引い て下さい。

資料を音読する。

発問1:

それでは、はじめにみんながすごいなと思ったところとか、資料を聞いた感想を発表してもらいます。

発表されたものは板書する。
・濡れない着物を作ろうとしたところがすごい。
・18歳で編み物ができるなんてすごい。
・自分ができないことにチャレンジしている。
・口に筆をくわえて字を書くなんて・・・。
・できないことに次々挑戦した。

発問2:

この他に発表したい人いますか。
久子さんのすごいところをあげてもらいました。
障害に負けないで生きてきたのは、誰がいたからか。強く生きてこれたのは誰がいたからか。カードを配るので、できれば理由もつけて書いて下さい。

机間巡視。

指示3:

あと1分くらいです。まとめて下さい。
書くものをおいて下さい。

列指名で発表させる。
・母親。着物のほどきものを言いつけなかったら、久子さんのやる気が生まれなかったから。
・母親と祖母。障害者として特別に扱わなかったから久子さん自身が強くなれた。
・祖母。「どんなに辛くても~」という言葉が印象が残った。
・祖母。なぐさめたり、習字、読書を教えてやったり、「どんなに辛くても、力の限り~」励ました。
・祖母。久子さんが死にたいと思ったときに、祖母の言葉が死をおもい止めさせたから。
・祖母。「こういう明るい~」というように、特別扱いでなく接したから、どんなときでもくじけずに生きていけた。
・家族。祖母の励まし、母親の着物を教えたりすることがなかったら、今の久子さんはなかったから。
・久子さんを支える人。母と祖母との励ましがあったから。人間は一人では生きていけない。一人でいると死んでしまおうとか考えてしまうと思うから。

指示4:

今出してもらったことは先生も大事だなと思いました。
今、ずっと久子さんのことを考えてきました。今日印象に残ったことなどを書いて下さい。時間は5分です。

あと1分くらいです。

・侮辱が久子を支えた。久子さんはすごい。侮辱を乗り越えて新しいことに挑戦した。
・障害を持っていても頑張って生きていること。まわりの人の影響も大きい。
・前向きで、強い。自分だったらできない、強い生き方だな。
・障害者を支える人の協力と障害者自身の努力。
・障害者はまわりの人の接し方で、生き方がかわる。
・まわりの人が何と言おうと、自分の道を進んでいったのはすごい。
・強い人だ。自分だったらメソメソしてしまう。他の人の励ましがあっても駄目かもしれない。久子さん自身の頑張りもかなりあったと思う。
・まわりの人の支えがあれば、いじめや差別もなくなるのかもしれない。
・いまでもひどい差別がある。これほどひどいとは思わなかった。


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