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TOSSランドNo: 1799259 更新:2012年12月06日

大江磯吉の生涯(資料)


大江磯吉の生涯

 磯吉は、1868年(明治元年)に、長野県飯田市伊賀良殿岡に生まれ、35歳の若さで亡くなるまで、厳しい差別の中で一生懸命に生きぬた郷土(長野)の立派な人物です。
 磯吉の祖父は江戸時代の末に、旅芸人として渡って来て伊賀良に住みつき、一家は村人のはからいで下役を務めておりました。磯吉の家は、お正月のお祝いの舞や村々のお宮のお祭りなどにまんざいなどを踊ってまわる旅芸人の家でした。そのため磯吉たちは江戸時代の「えた」「非人(ひにん)」、今でいう部落民として差別を受けたのです。
 磯吉は下殿岡の神社の境内わきの小さなわらぶきのほったて小屋に生まれました。小さい頃は、お正月など、お父さんに連れられて家々の門に立ち、踊りのための鈴をふったりしていたということです。やがて、6歳で近くの殿岡小学校に通うようになると、とびぬけて優れた成績を示しました。しかし、先生は世間にきがねをして、ずっと1番の成績だった磯吉を2番にして、庄屋の息子を1番にしたそうです。しかし、磯吉は、そんな差別にもめげず、ずっと勉強を続けました。
 磯吉は、村の学校が終わると、そのころ飯田地方に一つしかなかった飯田学校(現在の飯田高校)の高等科に進みました。おとなしい性格でしたが、成績は群を抜いていました。友だちからは「ここはおまえが来るところじゃない。けがれるから早く帰れ」といじめられていたけれども、勉強に打ち込み差別に耐えていました。父の周八は、磯吉の将来を考え「新しい世の中では学問が何よりも大切だ。えたの身分をかくして一生懸命に勉強しなさい」といつも磯吉少年を励ましました。
 磯吉の家は貧しかったのです。母親の志のは、内職をして家計を助け、生計を切りつめ、磯吉の学費を工面しました。当時、飯田学校へ通っていたのは、部落外の生徒と磯吉の2人だけで、「えた」の身分で高等科の勉強をするのは、まったく異例のことだったのです。
 高等科を優秀な成績で卒業した磯吉は、そのまま先生として飯田学校に残り、子どもたちを教えるようになったのです。磯吉が14歳のころです。
 翌年、郡立の中学校ができると先生を辞めて、そこの学校に入学しました。伊賀良村から、矢沢うひろと磯吉の2人だけでした。2人は仲良しで肩をならべて通いましたが、自分の村に入ると、いつも後に付いて歩いていました。
 磯吉の家は貧しく、月の光で本を読むこともあったなどと苦労した話が、いくつも残っています。
 
 中学校で1年勉強した磯吉は、長野師範学校(現在の信州大学)へ入学しました。ここでも優秀な成績で卒業して、岡谷の平野小学校に先生として勤めることになりました。しかし、平野小学校の先生たちは、磯吉を学校から追い出そうとしました。「身分の卑しい(いやしい)部落民とは、一緒に学校にいられない」というのです。生徒たちをたきつけて、授業放棄をさせたのです。なんと心のせまい人たちでしょう。
 しかたなく校長先生は、1週間で磯吉を長野師範学校にかえしました。
 そこで、磯吉は当時、最も難しい学校の一つである東京師範学校に学びました。
 磯吉は、ここでも優秀な成績で卒業しました。
 当時、長野師範学校の校長をしていた浅岡一という先生は、まわりの強い反対を押し切って、磯吉を再び長野師範学校に迎え入れ、翌年には附属小学校の主事に任命しました。磯吉は、頭が良く、新しい学問を教える先生として、学生たちに信頼されていましたが、多くの者は、磯吉の身分をいって嫌っていました。下宿では、噂を聞いた他の下宿人が逃げ出す、という騒ぎもありました。また、講演会で飯山へ行ったときには、磯吉は講師であったのに、磯吉が泊まった寺の部屋の畳をはりかえられたり、塩をまかれたりして、ひどい差別を受けました。北信地方(長野県の北の地方)では、当時、賤民(せんみん:最下層の身分とされた人々)軽視の偏見が残っていたのです。
 やがて、磯吉はこんな空気にいたたまれなくなり、大阪師範学校に移り、そこで結婚しました。相手の女性は、もと士族の立派な女性でした。人物が立派なら身分など関係ないということで、今から考えても大変すばらしいことだと思います。しかし、大阪での生活も長くは続きませんでした。それは、母親の志のが、用務員室を訪ねたときに「磯はおりますケー」と言った、言葉遣いや態度から変に思った生徒の1人が、夏休みに山深い信州へ、磯吉の身分を調べに、わざわざ行ったのです。そして、磯吉の身分がわかると、すぐに追い出しにかかったのです。ここでも、ひどい差別を受けた磯吉は、2年で大阪をさらねばならなかったのです。
 その後、友人の紹介で、鳥取師範学校の主事になり、5年間、教育のために大きな働きをしました。また、この時、初めて磯吉は、生徒の前で自分の身分を明らかにして、次のように言っています。
「私は、部落の出身である。しかし、学問の道には上下の差別はない。私はこの教育に生涯をかけてやります。」
 しかし、そこでも差別はついてまわり、磯吉の行くところ、どこからともなく、その身分を明らかにするような手紙がきたりして、その出世をねたむ者がいました。世間はかつての部落民としての磯吉を、押さえつけようとしてしました。そして、出世すればするほど風当たりを強めたのです。
 やがて、明治32年には、兵庫県に新しくできた柏原中学校の校長先生になりました。磯吉は33歳の若さでした。

 磯吉は、ふるさとの年老いた母の元へしばしば帰りました。立派な教育者になった磯吉は、村先まで来ると人力車から降り、洋服を脱ぎ、靴を脱ぎ、もも引きをはき、きゃはん・わらじ姿に身なりを変えて村へ帰りました。家に着くと、すぐ近所のお世話になった家へのお礼の挨拶にまわりました。「ごめんくださいまし。磯吉であります。留守中父母がお世話になりまして」と土間に片膝ついて、両手を地面につけたまま頭を下げるのでした。「あれ、先生、まあ、もったげない。そんなことおよして」と年寄り衆は、目に涙を浮かべて止めさせようとしたのでした。役職の地位があるほど謙虚な態度を失わず、村に帰っても村人に挨拶して回りました。彼の心の奥ゆかしさに、心ある人は強い感動を覚え、心ない人々は、さらにこれを部落民として許さなかったのです。

 ある時、母の志のが病気にたおれた、という便りを手にした磯吉は、学校の仕事を一切教頭に伝え、急いで信州に帰った。阿智の駒場まで来ると、村の若者十数名が迎えに出ていた。若者たちに礼を言う磯吉に早く母の元へ帰るよう、せき立てた。
 残念なことに磯吉は、一心に看病するあまり、母のチフスがうつり、母親より早く亡くなってしまったのです。磯吉はどんなに心残りだったでしょう。

 磯吉は、差別と闘うために、一生懸命に学問をしたのです。物心両面から援助したお隣の医師や、村人は、磯吉の学問と人間性を高く評価していたのです。差別と闘い、闘い抜いた男、大江磯吉は、飯田市下殿岡の共同墓地に今も静かにねむっている。

 


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