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TOSSランドNo: 2210296 更新:2012年12月03日

エルトゥールル号事件


1985年,イラン・イラク戦争。
フセインは「テヘラン爆撃声明」を行い,
テヘラン在留邦人は極めて危険な状態にさらされた。
在留邦人を救援する手立てを失っていた日本政府。
この土壇場の危機から日本人の生命を救ったのが,友邦トルコ共和国である。
自らを危険にさらす行為を,トルコは何故敢えて決行したのか。
その背景には両国の絆を深めた史実があったのである。
先人の命懸けの活躍が,1世紀の歳月を超えて同胞を救った。
この事実を子供たちに伝えたいと願い,授業案をつくった。

元になったのは,占部賢志氏の文章である。
(『危機の日本人を救ったトルコと明治日本』「祖國と靑年」平成14年10月号に掲載)
大変格調高い文章で,読む者の心を鷲掴みにする。

説明1:

(イラン,イラクの地図提示)
国境紛争が続いていたイランとイラクは1980年,戦争を始めました。
今から23年前のことです。

説明2:

(テヘランの写真提示)
この頃,イランの首都テヘランには世界の先進国が出資した会社が220社以上ありました。
勿論,日本の会社も多く,家族一緒にテヘランで生活している日本人も大勢いました。

説明3:

1985年になると,テヘランの北部がイラク機に爆撃されるようになり,不安が広がっていました。
(フセインの写真提示)
そして,3月18日,イラク大統領サダム・フセインは次のような声明を出しました。
(新聞記事を提示)
「イランの上空は航行禁止区域とする。3月20日午前2時以降,イラン上空を航行する
全ての航空機は攻撃対象になる。」
この時点で,テヘランに在住する日本人は,およそ500人ほどでした。

発問1:

現地の人達はどうしたでしょう。

説明4:

日本の外務省は直ちに引き揚げ用のチャーター機の手配に入りました。
しかし,日本がチャーター機を手配し始めようとした時,
あろうことかイランがイラクの首都バグダッドへのミサイル爆撃を始めてしまいました。
事態はますます悪化しました。
この時,バグダッドでは二人の日本人が負傷しています。

説明5:

もうこうなると,外国の航空会社の旅客機はあてになりません。
当然自分の国の人達を優先して乗せるからです。
藁にもすがる思いで予約した日本人は,はじき出されてしまいました。
タイムリミットの前日19日には,多くの航空会社の各便が軒並み欠航となりました。

説明6:

外国の力はもう頼りにできません。
日本航空は救援のための旅客機を成田空港に準備しました。
ところが,日本の外務省とイランの日本大使館や在留邦人会との打合せが遅れ,
タイムリミット前に救出する時刻に間に合わない事態となりました。
日本航空は「帰る際の安全が保証されない」と,テヘランへ飛ぶのを諦めました。

発問2:

テヘランに残された日本人は,どうなりますか。

説明7:

(トルコ航空機の写真提示)
タイムリミット前日の午前11時,現地のトルコ大使館から日本大使館へ,突如次のような連絡が入りました。

「トルコ航空機の200席を日本人に割り当てます。利用してください。」

説明8:

(新聞記事を提示)
 トルコ航空機は2便用意され,日本人215人は土壇場にテヘランから脱出することができました。
イラク軍による攻撃開始の1時間前でした。

指示1:

感想を一言

発問3:

危険を冒して他国の人を救うというのは大変なことです。
トルコが命懸けで日本人を救った理由は何でしょうか。
ノートに書きなさい。

説明9:

駐日トルコ大使ヤマン・バシュクット氏は,平成13年5月6日の産経新聞紙上で,
次のように述べています。

「特別機を派遣した理由の一つがトルコ人の親日感情でした。
 その原点となったのは,1890年のエルトゥールル号の海難事件です。」

説明10:

(和歌山県沖の地図提示)
エルトゥールル号事件とは,こうです。
明治23年,トルコの使節団が軍艦エルトゥールル号という船で日本を訪れました。
およそ3か月間,日本で友好を深めた後,トルコに戻るため出港します。
しかし,あろうことか台風の直撃に遭い,トルコ使節団660名を乗せたエルトゥールル号は
和歌山県沖で沈没してしまいました。

(座礁現場写真提示)
深夜で暴風雨でしたが,事態を知った大島島民は救助を開始しました。
当時の記録を見てみます。(記録の文章提示)

「直に現場に至り視るに,船体の破片,宛(あたか)も山をなし,
 海面死体の激浪の中に浮沈しあるを以て,
 直に人夫を出して負傷者を担荷,寺院に移さしめ......」

説明11:

見るに耐えない,大変悲惨な状況でした。しかし,大島島民たちは怯むことなく救助に立ち向かいました。
当時の記録にはこうあります。

「まず生きた人を救へ!海水で血を洗ひ,兵児帯で包帯をし,
 泣く者,わめく者を背負つて二百尺の断崖を
 よぢのぼるものは無我夢中である。」

説明12:

(樫野崎の断崖の写真提示)
200尺の断崖とは,ここのことです。
約60mほどの息を呑むような断崖です。
暴風雨のため火もおこせないので,島民はトルコ人を腕に抱き人肌で温めて介抱に当たったといいます。
台風が過ぎた後は,非常事態に備えて蓄えていた食糧を与え,元気になるよう努めました。
この懸命な努力により69名のトルコ人の生命を救いました。

説明13:

このエルトゥールル号遭難の知らせは和歌山県知事に伝えられ,明治天皇に言上されました。
明治天皇は直ちに医者と看護婦を派遣させ,生存者全員を軍艦「比叡」「金剛」に乗せてトルコに送還されました。
(…軍艦による移送は当時,国家による最高の儀礼とされた)
日本全国から義援金が寄せられ,トルコの遭難者家族に届けられました。

説明14:

駐日トルコ大使ネジャッティ・ウトカン氏は平成7年1月の産経新聞で次のように述べています。

「悲劇ではあったが,この事件は日本との民間レベルの友好関係の始まりでもあった。
 この時,乗組員中六百人近くが死亡した。
 しかし,約七十人は地元民に救助された。
 手厚い看護を受け,その後,日本の船で無事トルコに帰国している。
 当時日本国内では犠牲者と遺族への義援金も集められ,遭難現場付近の岬と地中海に面する
 トルコ南岸の双方に慰霊碑が建てられた。
 エルトゥルル号遭難はトルコの歴史教科書にも掲載され,私も幼いころに学校で学んだ。
 子供でさえ知らない者はいないほど歴史上重要な出来事だ。」
                              (「産経新聞」平成7年1月9日)

指示2:

今日のお勉強をノートにまとめておきなさい。

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【参考資料】
◆占部賢志『歴史の「いのち」』モラロジー研究所
◆占部賢志『危機の日本人を救ったトルコと明治日本』
      「祖國と靑年」(日本青年協議会)平成14年10月号に掲載
◆安達弘『トルコ人が日本人を好きになった理由』
      自由主義史観研究会「教科書が教えない歴史」(扶桑社)に掲載
◆生命の光『エルトゥールル号の遭難』(エルトゥールル号事件を綺麗な挿絵とともに説明しています。)
◆占部賢志『蘇れ日本,JHC講義録』
◆『紀伊大島』
◆『飛行機大図鑑』
◆『Area明治維新』
◆『School Icons Club』


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