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TOSSランドNo: 2210376 更新:2013年01月02日

石井十次の生き方


発問1:

父さん お母さん 育ててもらうべき人がなく 道の上で生活する子どもたち。

ストリートチルドレンは、世界に1億人以上いるといわれています。

明日、食べるものがあるかどうか。今日どこで寝るのか。そんなことで困っている子ども達

が1億人日本の人口と同じくらい世界にはいるのです。

今の、日本にそんな子ども達はいますか?

見たことがない。いないと思うと答えた子が圧倒的に多かった。

発問2:

今は、いないけど昔の日本にはいたと思いますか。

ほとんどの子がいたと答えた。

説明1:

江戸時代には、まびき といって、とても育てていくお金がないから生まれてきた赤ちゃんを
すぐに殺してしまうことがありました。天候がわるく凶作で、食べ物に困った時代がありました。
戦争がおわって間もない頃は、お父さんお母さんを亡くした子どもが、靴磨きをしながら生活し
ていた時代がありました。育てる人がいない子どもを孤児と言います。

今日は、そのような弱い立場にある子どもを守ろうとした人物の話をします。

説明2:

石井十次、宮崎県の人です。キリスト教信者の荻原先生という医者に見込まれ「私のように医者
になれ、医者になって多くの人を救いなさい。学費は応援するから」と進められ、医者になる勉強
をするために。岡山に住んでいました。医者になる勉強をする一方で、診療所ではたらいていまし
た。隣の大師堂で男の子と女の子を連れた貧しい身なりの母親が、とても貧しくて育っていくこと
ができないので、男の子をひきとってほしいと頼んだのでした。

「この子だって、私と同じように望まれてき生まれてきたのに。」

それが、孤児院のはじまりでした。日本で最初の孤児院は岡山にできたのです。

1887年 明治20年のことでした。それから数人、子どもを預かりました。

 十次は医師としての勉強をしながら、子供達の世話をし、勉強までも教えます。しかし、医師と
しての勉強と子供達の世話の両立は難しくなってきます。

発問3:

もし、自分がそんな立場になったらどうしますか。自分の考えと理由を書きなさい。

苦しくても、両方続ける。医者を辞めたら食べていけない。と考えた子が多かった。

説明3:

将来を約束された医師の道を歩んでいた十次は思い切った行動に出ます。

 十次は6年間学び続けてきた医学書を庭に持ち出し、火を放ち一気に焼き払ってしまったのです。
その火を見ながら十次は次のように言いました。

「医者になる者はたくさんいる。しかし、貧しく哀れな子供達を救済しようとする者は今、残念だ
が私をおいて誰一人といない。私がこの子供達を見捨ててしまえばこの子達は明日の日から生き
てはいけないのだよ。」

将来を約束された医者の道を捨て、孤児院を続けることにしたのです。

説明4:

将来を約束された医師の道を歩んでいた十次は思い切った行動に出ます。

 十次は6年間学び続けてきた医学書を庭に持ち出し、火を放ち一気に焼き払ってしまったのです。
その火を見ながら十次は次のように言いました。

「医者になる者はたくさんいる。しかし、貧しく哀れな子供達を救済しようとする者は今、残念だ
が私をおいて誰一人といない。私がこの子供達を見捨ててしまえばこの子達は明日の日から生き
てはいけないのだよ。」

将来を約束された医者の道を捨て、孤児院を続けることにしたのです。

発問4:

医者をやめた十次はどうやって、孤児院を続けてていくお金を得たと思いますか。

募金活動をした。寄付してもらう。という意見が出た。

説明5:

寄付金にたよりました。たくさんの人から、援助してもらいましたが、大きな力になってくれたのが
のが、生涯にわたって十次を助け続けた、大原孫三郎。倉敷紡績の社長でもあり大原美術館を建てた
人です。岡山にキリスト教を広めにきていた、アメリカ人ジェイムス・ペティーでした。
十次自身熱心なキリスト教信者でした。

説明6:

約7000人が死んだと言われる濃尾地震 アメリカにも石井十次の活躍が伝えられました。 
東北の大飢饉。東北地方が冷害による大飢饉に見舞われた。多くの子どもたちが親に捨てられたり、
売られたりしたのです。その時も、たくさんの孤児を引き受けたのです。親がいても貧しくて育てる
ことができない子どもも引き取りました。そのころには、孤児院がたくさん作られていました。
全国38の施設が、救いの手をさしのべました。人数では、石井十次の岡山孤児院が、一番でした。

発問5:

この写真はなんでしょう。(1200人の孤児集合写真を見せた。)

★石井十次で検索すると必ず集合写真にヒットします。

昔の修学旅行。どこかの学校。という意見が出た。正解は孤児院の集合写真。

発問6:

こんなたくさん人がいるのです。何に困ったでしょうか。

お金

発問7:

十次が1か月やっていくのに現在のお金でどのくらいかかったと思いますか

①   60万円
②  600万円
③ 6000万円

説明7:

正解は③です。

 十次が引き取った孤児の中には、貧しさ故に、お金を盗んだり、物を取ったりするような子ども達
もいました。十次は「満腹主義」といっておなかがいっぱいだと悪いことをしないという考えから、
子供達に満腹になるまで食べさせました。1か月の生活費は現在のお金で6000万円も必要になっ
てきます。

発問8:

みんななら、どうやって資金を集めますか。ノートに書きなさい。

募金活動。 孤児と一緒に働くと答えた子が多かった。

説明8:

十次は音楽幻燈隊を組織し、孤児達の暮らしを映画で紹介したり、演奏したりして、募金を集めたの
でした。国内はもとより、韓国、台湾、中国大陸と出かけていきました。しかし、金儲けをたくらん
で、真似をする人が出てきたのでやめることにしました。また、十次は、ただお金を集めるだけでな
く、教育理念ももっていました。いろいろな仕事をします。「活版」といって印刷をするのに文字ご
との活字を組み合わせ、印刷をする仕事です。「精米」といって玄米のぬかを取って白米にして販売
する仕事です。岡山よりも生活費が少なくすむということで故郷の宮崎県に農場を開きました。60
ヘクタールもの広い土地です。(100mの正方形が60個分)「養蚕」といって桑畑でそれを食べる蚕を飼う仕事です。
蚕が作る繭からは、絹が作られます。

1911年、明治44年には、寄付金募集せずを宣言しました。

説明9:

茶臼原で暮らした孤児達の当時の思い出が、誰のものかは分かっていませんが、いませんが、記録に
残っています。

自分は農業にむかないというので、ある店に丁稚に出されたが、おもしろくないので、そこを飛び
出してしまった。ひとりで身を立てようと思ったが、うまくいかないので茶臼原に帰ってきた。怒ら
れることは覚悟していたが、石井のお父さんは、何もいわないで、頭を大きな温かい手でなで、ここ
におれ、といった。その手のさわりがまだ記憶にある。それからは、宣伝の幻燈の手伝いについて歩く
ことになったが、やがて農場学校に入った。」

「自分たちはほかでは見られないぜいたくな教育を受けたと思う。見習のときはきつかったが、農場学校
ではとてもよい教育を受けたと思う。そればかりでなく一流の人がきて話などしてくれることがしばしば
あった。」

自分たちのことをコジイン コジインという。何がコジインか、自分たちはコジインの児童であって
コジインじゃないと言い返したこともある。こんな不愉快なこともあったが、自分たちは教育のおかげ
で読み書きもできる。農業の知識もある、女子は裁縫や家事もうまいというわけで、自分たちの方が
上だと思った。」

親の愛を知らない子供たちは、石井十次という徳のある大人物の背中を見て立派な大人になっていった
のでした。貧しく哀れな子供達を救済しようとする者は今、残念だが私をおいて誰一人といない。この
思いが、大勢の人の心を動かし、約3000人の子供たちを救ったのでした。

指示1:

今日の授業の感想をノートに書きましょう。


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