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TOSSランドNo: 3130069 更新:2013年01月01日

林竹二氏の授業観に学ぶ


 私のプロ教師へのタ-ニングポイントは林竹二氏の授業観に出会った時である。
 1971年に教師になり、どんな授業づくりが良いのかを模索していた。その時に林竹二氏の実践と授業観に出会った。
 林氏の著作や論文から、授業とは何か、追求のある授業の成立条件とは何か、教師の役割と責任とは何かなどについて学ぶことが出来た。
 プロ教師になるためには、自己の教育観、授業観の確立が必要である。林氏に出会うことによって、それが出来たように思われる。
 林氏からどんなことを学んだのかを紹介する。私の教育の原点である。

1.授業とは何か

 林氏から学んだ最初は、授業とは何かである。林氏は授業を「子どもたちだけでは到達できない高みにまで、しかも子どもが自分の手や足を使ってよじ登っていくのを助ける仕事」(『授業の中の子どもたち』日本放送出版協会)だと述べている。
 つまり、授業は知識を授けることではなく、子どもが何かを学び、学ぶのを助けてやることだと言う。
 子どもが主体となって、自分の手で自分の中から取り出して、自分のものにしていくことが授業だと主張している。
 それまでの私の授業は、知識を授けるものであった。教師が力んで教え込む授業であった。
 一生懸命に教えても、子どもの顔は輝かず学力もつかない。教師が疲れたわりに、子どもは伸びない。その原因は、子どもが受け身で、自分の足で登ろうとしなかったからである。
 林氏は、次のようにも述べている。
 「各自がどこまでも自分の手で、しかも自分のうちにさぐりあて、つきとめて己のものにしなければならないのです」
 「教育を、何かを教え込むことではなく、人間のうちにふかく蔵されているものを、人が自ら取り出すのを助ける仕事として捉え、しかもそのための技術を教育の中心課題として捉える」(『授業の中の子どもたち』日本放送出版協会)
 林氏はソクラテスの教育実践を通して述べているが、小学校の授業も同じであるべきだと考えた。
 なぜなら、私は学生時代に仏教の教えを学んでいた。人間修業の原理がまさしく林氏の考え方に通じていた。教育も同じであることが分かったからである。
 今までの授業は、いかにして分かりやすく教え込むかという点に重点がおかれていた。
 子ども自らに取り出させ、子どもが苦しんでつまずきながらつかむようにさせるなどの点には考慮していなかった。
 林氏の授業観を知り、発想の転換に迫られた。生き生きとした子ども、顔の輝く子どもにするためには、授業の発想をすべて「子どもが自ら取り出すのを助ける仕事」に焦点化しなければならないことに気がついたのである。
 次に林氏は、授業を問題追求の仕事と考えている。問題追求とは、一つの課題を教師と子どもが一緒になって追求していく事である。
 追求のある授業の構造を分析すると、教師が問いを投げかける。そして子どもの発言の内容を識別し位置づけ、思考の対象を発展させる。そういう作業を繰り返し、本質的なものへと意識化させていく。
 私の授業はそういうものではなく、一問一答式で発展もなければ本質へ迫るものでもなかった。ただ、知識を教えるだけであった。
 さらに林氏は、正しい解答が用意されていて、それを自分も言い当てたということで終わってしまう授業では、子どもは喜びにふくらむことはないと述べている。
 一つの到達のあとに、さらにどこまでも続く追求の過程があり、一つの事の終わりにいつでも新しい出発がくると言う。
 この追求そのものが、子どもにも純粋な喜びとなり、一つの山が越えられた時に子どもの目が輝くのである。
 しかも追求はそこで終わらない。登り着いた高みは、再び乗り越えられなければならない。授業はこの繰り返しだと主張している。(斎藤喜博編集『開く』NO.2明治図書)
 私の授業では、一つのことが終わるとそれで完結であり先への発展がなかった。
 一つの発問が次から次へと問題を生み、本質的なものへと子どもを導いていく追求がなかった。
 そのために平板で、感動のある授業にならなかったのである。追求があれば、子ども自らが苦しんでつまずきながらつかんでいく授業になるのである。

2.追求のある授業の成立条件

 一つの問題をみんなで追求する授業は、ほおっておいては成立しない。林氏はその条件を大きく6つに分けて説明している。

 ① 心を開く時

 第一は子どもが心を開く時だと言う。こちらと対等の関係になった時、授業は成立する。
 なぜなら、対等になった時にはじめて仲間になれる。仲間とは、相手の気持ちを類推し、感じ合い、響きあうことが出来る間柄だと言う。
 私の授業では子どもの心は開かず、正しい答えだけを強要しおどかしていた。
 心を開いている状態は「こういう笑いが、いい授業には、いっぱい出ます。笑いやささやきやうなずきが出るのは、よい授業の一つの大きな条件ですね」(斎藤喜博編集『開く』NO.9 明治図書)
 こういう自由な、心を開く子どもの活動があって、はじめて追求のある授業は成立する。

 ② 教えたいものが子どもの追求に転化する時

 心を開けばそれでいいかというとそうではない。林氏は「教師の持っている教えたいことが、子ども自身の課題として、成立し行かなければならない。そして、子ども自身の追求が、そこからはじまっていかなければならない。[略]そういう仕事ができるとき、はじめて、教師の持っているなにか教えたいことが子どもにとって、自分が追求したり、どこまでも追いかけずにすまないものに、転化していくわけです」(斎藤喜博編集『開く』NO.7 明治図書)と述べている。
 なぜ私の授業が浅く、盛り上がらず深まらなかったのか、これではっきりと理解できた。
 私は一人で授業をしていたのである。教師の教えたいことが子ども自身の課題とならずに、子どもの頭を通り越して私が一人で発問し、答えていたのである。
 子どもの顔が輝いた時がある。学級会でゲ-ムをした時である。ゲ-ムをすると言った途端、子どもの目が生き生きと輝き、顔が紅潮するのが分かった。
 ゲ-ムを始めると子どもは体で動き、顔は喜びそのもので豊かな表情を示した。子どもは私の課題を彼ら自身の追求に転化し、自らの力に転化していたのである。
 授業の中で、どうしたらそういう強い動機が子どもの内に働き、子ども自身の課題に転化できるかが課題となった。

 ③ 子どもが主体的である時

 心を開く時や教えたいものが子どもの追求に転化する時などの条件を保障するのは、子どもの主体性である。
 子どもの自主的な活動がなければ、教えたいものは、子どもの追求に転化出来ない。「子どもが授業の中で感じる楽しみの核心をなすものは、自分が自由な追求の主体になることができたという実感」であり、「外からの強制でない、自然に深く授業に入り込んでいったということ」(斎藤喜博編集『開く』NO.9 明治図書)であると言う。
 あくまで追求の主体は、子どもなのである。その子どもが自分自身の問題を授業の中から発見し、追いかけていくような授業でないと、追求のある授業は成立しないことを学んだ。

 ④ 吟味のある時

 林氏は授業の核心は発言ではなく、その吟味であると言う。
 吟味とは、「何かを教えることではない。問題をつきつけて、子ども自身にこれでいいのかということを考えさせる作業」であると言う。
 子どもが今まで分かったと思っていることが分かっていなかったことに気づかせることである。
 これでは駄目だと自分で分かる時に、子どもは否定を通して自分を変えていくことが出来る。林氏は否定ということを強調する。
 親らんを学んでいた私には、この林氏の主張がよく理解出来た。真実の自己の探究が授業につながることを発見した。
 私の授業には吟味がなく、子どもを変える否定がなかった。確かに子どもから出た意見や考えを比較したり、検討することはあった。
 しかし、それは私の考えていた正しい答えが出たら終わりであった。子どもが本当に分かっているか、疑問を感じているかなどには一切関知しなかった。
 そのために授業は深まらず、追求が止まってしまったのである。子どもの考えを吟味し、そこから矛盾を引き出し、さらに考えていくところに追求のある授業は成立する。そういう意味で、私の授業には真の吟味がなかった。
 一つの山を越えたら終わりという授業の中には、真の否定がない。授業が活気を帯び、子どもを主体的な追求者にするのは吟味である。
 一つの発言が教師や他の子どもによって否定される時に子どもはなぜだろう、どうしてだろうという疑問を持つ。
 その疑問や矛盾を通して発見していく。この繰り返しによって子どもの目が輝く授業になっていくことを林氏から学ばせていただいた。

 ⑤ 自己との対決がある時

 追求のある授業を成立させるには、吟味が必要である。その吟味を保障するのが、自己との対決である。
 林氏は「子どもの日常的な思考の次元、あるいは借り物の知識にたよって議論させ、その司会者に教師がおさまっている。それは、授業ではない。そこには、学習はない。きびしい自己との対決がないところに、学ぶということは成立しない」(斎藤喜博編集『開く』NO.17 明治図書)と述べている。
 授業の中で、子どもは自己との対決がなされなかった。私自身が一つの本質的なものに向かって、それに対決させようとしていなかったからである。
 自己との対決がなければ、疑問も矛盾も対立も他の意見との峻別も出来ない。
 追求には欠かせない自己との対決は、子どもの中から自然には湧いてこない。追求のある授業は、教師の仕事だと林氏は言う。
 教師の厳しい吟味によって、あいまいな考えを否定していくことにより子どもは自己と対決し、格闘をせざるを得なくなる。
 そこまで子どもを追いつめて、はじめて主体的な追求者になることを学ぶことが出来た。

 ⑥ イメ-ジのある時

 最後に林氏が強調するのは、イメ-ジの問題である。
 教師の教えたいものが、子どもの追求に転化できるのも、子どもが主体的になるのも、吟味が可能になるのも、自己との対決が起こるのも、すべて教材に対する教師のイメ-ジが明確になって出来るのだと言う。
 「ゆたかなイメ-ジとは、具体の場でどんなにでも自己を展開したり、貫徹したりする力をもっているものということです」(斎藤喜博編集『開く』NO.10 明治図書)
 「その種のイメ-ジが、実は授業の中で斎藤先生をつき動かしている。それが飽くことなき追求の一つの根源的な動機となっているのではないか。それがないと、戦う力がでてこない。きびしい吟味への動機がない」(『教授学研究5』国土社)
 ここではっきりとイメ-ジが授業の展開を決め、きびしい吟味につながることが分かる。追求のある授業の根源はイメ-ジなのである。教師のイメ-ジからすべてが開花することを学んだ。
 林氏は音楽家の例を出し、演奏家は明確なイメ-ジがあるから求めている音をさぐりあて、つくりだすまでは努力を惜しまないのだと言う。声が出るまで追求をやめないのは、イメ-ジがあるからだと言う。
 授業をする時、私の頭の中にははっきりとしたイメ-ジがなかった。イメ-ジがなかったために展開が甘くなり、吟味に欠け、子どもを動かす方法が見つからなかったのである。
 イメ-ジは教材解釈によって出来る。深く追求していく中で浮かび上がってくる。その教材で、自分の心に感じたものがあるからこそ、それを何とか表現し子どもの中に生み出そうとするのである。
 そのつきあげるものが、授業を生き生きと鮮明にさせるのである。
 「私は、イメ-ジがふかく、つよく授業者をとらえていることが、授業者における飽くことのない追求を生むのだという気がします」(『教授学研究5』国土社)という林氏の言葉につきる。

3.「変わる」ということ

 林氏は「学んだことの唯一の証しは、なにかが変わること」(斎藤喜博編集『開く』(NO.11 明治図書)であると言う。学ぶことで子どもの中で何かが変わるのである。
 私の授業では、子どもはあまり変わらなかった。少しは変わったが、目に見えては変わらなかった。
 どうしたら変わるのであろうか。
 林氏は子どもが変わるのは、吟味し真の否定が行なわれた時であると言う。今まで自分が考えていたことが、これでは駄目だと否定された時、そこから一歩抜けだし、自分が変わるのだと言う。
 「学問というのは、カタルシスだといっているのです。吟味がその方法です」とも述べている。授業は吟味によって、子どもを浄化する働きがある。
 林氏の授業を整理し構造化すると、イメ-ジ→問題→追求→吟味→否定→変革→浄化となる。
 追求していくのも子ども自身、これでは駄目だと否定するのも子ども自身、その自己否定があって変革出来るのである。
 もしその否定が教師の押しつけであれば、子どもは変革しないであろう。子どもが自ら苦労し、掴んでいく以外に方法はないのである。
 以上が林氏から学んだことである。林氏の教育観、授業観に出会うことによって、私の目指す方向が明確になった。教師になって5年目であった。それ以来、プロ教師を目指して今日まで実践を行なってきた。

  【参考文献】
 ○ 斎藤喜博の個人雑誌『開く』明治図書
 ○ 『教授学研究5、7』国土社
 ○ 林竹二著『授業人間について』国土社
 ○ 林竹二・松本陽一・小野茂祖著『授業の中の子どもたち』日本放送出版協会


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